「気持ちなんて、ぶつける以外に使い道ないじゃん」

 当たり前なんかない、というのを知識として得るまで、世の中には男と女の2種類がいて、全員が恋愛をして、女にはレズビアンと男も女も性的にまなざす人の2種類がいる、と信じ込んでいた。社会通念上そうなりやすいからみんな男と付き合ったり男の子の話をするだけで、女を恋愛的性的に眼差しても心のうちに秘めるものだと思っていた。知識を得てからもしばらくは、すべてのシスヘテロ女は時おり女に対する好意を秘めるものだと思い込んでいた。なぜなら私がそうだからで、好意を寄せた相手の性別が何であれ、嵐のような感情が過ぎ去るまでじっと耐える。しばらく待つと過ぎ去る。

 サンリオアニメ「アグレッシブ烈子」に、主人公の烈子が「気持ちなんて、ぶつける以外に使い道ないじゃん」と言うシーンがある。びっくりした。ぶつけて事故ってどないすんねん、と思った。例えば私が誰かを恋愛的に眼差したとして、それをぶつけるぐらいなら秘めた方がいい。気持ちをぶつける勇気よりも、その誰かへの眼差しを秘めごとにする決意の方が優しい。だって嫌かもしれないし。

 しかし最近、自分は秘めごとの多い人間というわけではなく、ただ単に嵐のような感情を自認するのが苦手なだけでは、という気もしてきた。自分をまるごと認めて愛してあげられない、自分のすべてが恥ずかしい、全部なかったことにしたい、だからぶつけるに至らないだけ。自分を愛せるようになったら、烈子みたいにデスボイスで自分の気持ちをシャウトできるようになって、もっと他者と親密に関わり合えるようになるんだろうか。

 「気持ちなんて、ぶつける以外に使い道ないじゃん」を理解できるようになるのかどうかはさておき、まずは自分の欲望を見つめなおさないといけない。結果として見つかった自分のマイノリティ性に名前がつくなら、勝手につけさせればいい。象徴となる旗を掲げる人々のことは尊敬しているけど、わたしはまずわたしの声を聞けるようになりたい。